先日、夜10時過ぎに、都心の駅から渋谷方面に向かって地下鉄銀座線に乗りました。
ホームに待つ人も行き交う人も、大手町や丸の内方面からの
会社帰りとおぼしき人ばかりです。
ふと気づくと、私の周りの全員がスマホを手にしています。
電車が到着して、中から降りて来る人も、
中にいた乗客も、全員が片手にスマホを持っているのです。
車内を横切る人すら、片手のスマホを、
まるでアンテナのように掲げて、
スマホに道案内されるかのようなポージングで歩いていきます。
やや混雑した車内で、スマホを手に持っていない人は、約3名。
その3人が持っているのは、
中年の白髪混じりのビジネスマンは二世代くらい前のiPod nano、
20代後半とおぼしきショップつとめぽいお姉さんはiPod touch、
10代後半とおぼしき大学生あるいはフリーターぽいお兄さんは、
PSPを握りしめてゲームに夢中。
スマホでないだけで、デジタルデバイスには変わりありません。
これが、昼間や夕方くらいの電車内なら、
まだ、本やノートを片手に持つ人、
ガラケーを覗くおじいさん、
何も持っていない人、
様々なはず。
が、夜10時過ぎの地下鉄では、スマホ率120%の勢いです。
私は、バッグの中に持っているものの、
歩きながら見る気はしないし、
電車に乗ったらメールチェックでもしようかと思っていたものの、
あまりの光景に見とれてしまって、
なんとかこの様子を写真に撮りたいと思ったのですが、
怪しい人になることを恐れて実行できませんでした。
確かに、スマートフォンは持ち運びできるミニサイズのパソコンで、
そりゃまあ、便利です。
スマホにして以来、パソコンで調べたいことも、
手元のデバイスで、いつでもどこでも、手軽にできるようになりました。
でも、だからって、車内の乗客ほぼ全員がスマホ片手って。
まるで30年前のキップか定期みたいに。
バッグやカバンにしまったり、ズボンや上着のポケットにしまったり、
という人も皆無で、ひたすら片手にかざしているわけです。
もはや一心同体。
複数の企業が、腕時計やメガネ型の端末を新発売、もしくは考案中です。
それほど、私たちは情報と抱き合っていたいのだろうか。
なんだか不思議の国に迷い込んだような気がする夜でした。
ついにiPhoneをdocomoが扱うことになって、
チマタにまた、あの機種が増えるのでしょう。
思えば、私たちが携帯電話を使い始めたのは便利だったから。
そして、今もほとんどのキャリアは便利さや機能性を打ち出しています。
そして、今もほとんどのスマホを求める理由は
「デザインがいい」「早くつながる」「操作性がいい」「ゲームしやすい」
などの機能性だと思います。
ところが、iPhoneだけは、選ぶ理由が、
もはやブランドに対する信頼性だと思います。
つまり、iPhoneというクラブのメンバーになりたい。
「使うこと」ではなく「持つこと」に意味がある。
それがiPhoneが築いたステイタスであり、ブランド性なのだと言う気がする。
すべての「人気ブランド」に共通する傾向ですが、
それはもはや信仰に近い。
だから、テレビコマーシャルを見ていても、
ほとんどのキャリアのCFがより享楽的で、
これ持つと楽しいよ、アハ!!みたいな、
テーマパークやレジャー的なノリなのに比べて、
iPhoneのCFはひたすら哲学的です。
「iPhoneでなかったら、それはiPhoneではないのです」
とすら言っていたことがありました。
禅問答?
あるとき、iPhoneのCFかと思って見ていたら、
本当に某宗教系の出版物の宣伝だったことがあって、
iPhone=Mac=信仰という思いを新たにしました。
信じることは確かに、ある面で救われること。
地下鉄でスマホ片手に行き交う人たちに取って、
それは確かにどこかに導いてくれるアンテナなのでしょう。
とか言っても、決して偉そうに上から目線で言っているわけではありません。
実際に今、これまで待ちぼうけだったdocomoユーザーとして、
iPhoneに機種変しようか迷い中です。
手にかざして地下鉄をうろつけば、
神の声が聞こえるかも知れません。