摩天楼の空

秋もすっっかり深まってきました。
街を歩けば金木犀の香りが風に乗って漂ってきます。
この香りは、嗅いだとたん、胸の奥の弱い場所をつんと差してくるような、
どこか切ない感じがあります。
陽も短くなり、これから冬に向かおうとする時期のせいでしょうか?

仕事の上ではもはやすっかり冬です。
出版物は一ヶ月以上、時間を先取りなので、
真冬やクリスマスを意識した特集の撮影などが続いています。
先日は、ホテルで過ごすクリスマスというテーマの撮影がありました。
なんと、夜景の美しいホテルでの一泊プランに超豪華ジュエリー付き。
男性から奥さまやパートナーなど大切な方へ、
日頃の感謝を込めてクリスマスの贈り物をしたい、
でも、プレゼントを探している時間や、何を贈ったらいいか、
よくわからない、という方のためにホテル側が超豪華ジュエリーもご用意します、
というプランで、宿泊費はジュエリー込みで平均大卒初任給くらいの金額。
夜景を眺めつつ、ホテルセレクトの豪華ジュエリーを贈られる人生って、
どんな感じでしょう・・・。
その女性の悲喜こもごもを妄想してしまい、軽く小説1本書けそうな気がしました。
撮影スタッフの中に豪華客船の仕事に関わっている方がいて、
その方いわく、客船でのクルージングはつねに人気で、
相変わらず陰りはないとのこと。
そういえば、母のお友達(最近豪邸を新築・超セレブ)が、うちにいらした時に、
日本茶を出したら、その器がものすごくお気に召したらしい。
形はきれいだけれど、粉引きの、なんということはない湯飲み茶碗。
で「これ、どこでお求めになったの?」
と言われたけれど、私はしょっちゅうどこかで、
器を買ってしまう奇病に取り憑かれているので、
どこで買ったものか思い出せない。
銀座和光で、とか言えればカッコいいのだけれど、
多分、どこかのデパートのワゴンか特設会場の陶器市だよな〜としか思い出せない。
私はかなりヘビーな器マニアなので、きちんとした値段の物を買っていては、
とっくに破産しております。
だから、自分流ルールを設けていて、
「ひと目で惚れほどカッコいい、ほかの食器と喧嘩しない、普段使いができる」
の3点をクリアした上で最後の大問題「お求め安い!」をパスしないと、
購入しないことにしている。
高くていいのは当たり前。リーズナブルなプライスでカッコよくて使い勝手がいい。
これです。
で、母のお友達のご婦人は「これ本当に素敵ねえ、こういうの、ずっと欲しかったの。
どこのお店だったか思い出したら教えてくださいね」と、
その器を抱きしめて、熱いまなざしを注ぎながらおしゃったのでした。
その時私は、こうした方々が百貨店の外商の顧客であらせられるのかと思ったり。
いいもの、洒落たものが欲しい、でも、自分でアレコレ発掘して歩くのは苦手。
誰かにおすすめされたい、おいくらでも結構よ、
という富裕層ターゲットの企画が、そういえば最近目立ちます。

撮影は西新宿にあるホテルの42階にある超高級客室で行われました。
一般の客室ではなく、カードキーを持っていないと、
泊まっている部屋のフロアにエレべーターが泊まれないし、
チェックイン・アウトも一般用とは別の専用フロントで行えます。

西新宿という副都心は、1971年の京王プラザホテルのオープンから幕を開けました。
当時、日本一の背高ビルだった同ホテルも、今は全国高層ビルランキングで68位とか。
現在の西新宿は、ハイアットリージェンシー、ヒルトン、パークハイアットなどの
ホテルをはじめ、都庁ビルほかの高層ビルが建ち並ぶ近未来シティ。
約半世紀前までは、このあたりに都民の水瓶、淀橋浄水場があったのでした。
そう、ヨドバシカメラのネーミングはこの淀橋からきているらしいです。
その浄水場が移転した跡地に副都心が計画され、高層ビルが続々と建ち並びました。
相次いで高層ビルがオープンした当時は、右肩上がりのアクティブな未来を、
誰もが思い描いていたはず。
時代の先が見えづらい今、
天を目指して伸びる高層ビル群は、
心なしか巨体をもてあましているように見えます。

昭和のはじめや中期に、小さな町工場だった会社が、
大企業に成長した高度経済成長マジック。
今は逆に、細やかな動きができる所が、
大企業の足元を脅かしているように思います。
こういう時代だからこそ、昭和の熱い志を再燃させて、
目の前の小さなことからコツコツと歩を進めて行く事が大事。キリッ!
などと、靄がかかって見通しの悪い新宿の景色を眺めながら、
思ったものでした。
なので、写真は右肩あがりにして見ました。

哀愁のデイ・トリッパー

なんだか今年の夏は、ずーっと締め切りに追われていて、
旅行どころか、満足に息抜きもできないまま。
気がつけば9月が終わっていました。
10月も3日になり、そろそろ金木犀の香りが風に乗ってやってくる頃です。

この夏、仕事をしながら、ずっと旅行に行きたいと夢想していました。
ひたすらの現実逃避願望です。
まず行きたいのがイタリア。
南イタリアのシチリア島あたりで、海辺のレストランに入り、
イカだのタコだののアーリオオーリオ風味がいただきたいもんです。
オリーブオイルも北より南が濃厚で、
料理は北より南のほうが好みですが、
行ってみたい場所はイタリア側のリビエラ海岸近くにある、
チンクエ・テッレという所。
ティレニア海に面した岸壁に赤・黄・オレンジなんかのカラフルな建物が密集している、
まるで絵に描いたような不思議な村々です。
ここは交通の便が悪いとのことで、
昔ながらの文化や風習がそのまま残っているとか。
ともあれ、家ズキ、しかも風変わりな住宅ズキとしては、
写真で見るたび、もうたまらんと思います。
イタリアはベニスも行きたいし、
昔の建物が残るアルベロベロという北の村にも行きたい。
それが時間的に無理なら、せめて国内のどこかに行きたい、
もう日帰りでもいいから、伊豆とか箱根とか。
伊豆急は遅くなると各停しかないけどまあいい。
河津の海辺の店で刺身と焼き魚を食べたい、
下田で刺身と煮魚を食べたい、
箱根なら、はつ花で天ぷら蕎麦だ・・・と、胃袋直結の旅行願望はつのるばかり。
どれほど日常に埋没しているか、ということでしょうか。
箱根といえば、2年前は取材で箱根に行くことが多く、
1年で5回も行ったものでした。

小田急線沿線で生まれ育った私にとって、
子供の頃から行楽地といえば箱根。
海賊船に乗るのが何より楽しみで、
泊まったホテルのレストランで食べるアイスクリームがとびきりおいしくて、
旅館では今で言うウエルカムスイーツの湯餅がおいしくて、
帰りにおみやげ物屋さんで買って貰ったりしました。
そうそう、ロマンスカーに乗る時に雑誌を買って貰うのですが、
私は小学生の頃から週刊誌が好きで、
駅の売店で週刊新潮を買って貰って、
夜、旅館で読んだりしていました。
そんなことを箱根に行くと、ふっと思い出します。
おもしろいことに、当時泊まったことのあるホテルはすべて今も営業していて、
そのうちの2軒はその後、広報紙の仕事で関わることになったのでした。
箱根には山ほどホテルや旅館があって、
私が子どもの頃や若い頃に泊まったことがあるのはせいぜい5軒。
そのうちの2軒と、大人になってから仕事でかかわるって、
めちゃくちゃ高確率といえまいか。
しかも何十年も経っているのに、
それが全部今も残っていて、そこに取材に行ったりしている。
運命のようなものを感じます。
ともあれ、箱根というのは自然のテーマパークのように、
よくできたジオラマみたいで楽しい所です。
外輪山に囲まれた青い芦ノ湖に、色鮮やかな海賊船が浮かんでいるのは、
いつ見ても心躍る眺めです。
それにしても、この湖に海賊船を浮かべようなんて、
最初に考えた人は相当アナーキーではないでしょうか?

最後に箱根に行ったときは芦ノ湖周辺のゴールデンコースと、
足柄古道という万葉時代からあったらしい道の、
周辺を数日かけて取材しました。
私が事前に作った取材コースでは、
新松田駅から国道を経て、
現在は足柄街道という名前になっている車道を車で行き、
古道入口というバス停近辺を撮影し、
あとは要所要所を車で回って撮影する、というものでした。
が、いっしょに行ったディレクターが予想外に熱心で、
山の中腹に車を止め、
ハイキングコースをグイグイ登って行ってしまいます。
私は内心、マジかよ、と心折れながらも実踏せねばならず、
ひたすらバテまくった苦い秋の思い出・・・。
ちなみに「実踏」とは「じっとう」と読み、広告系の業界用語で、
「ほんとに歩く」という意味です。
その日はハイキングの予定はしていなかったので、
バッグは肩掛けのトート。
しかも地図だの資料だのガイドブックだのが詰まり、重たいのなんの。
ゆるやかとはいえ岩場も登ることになったら、
重いトートバッグがさかんに肩から滑り落ちてきます。
仕方がないので、トートバッグをリュックのように背中にしょって登りました。
時たま、アホそーな男子中学生がやっている、学生カバンしょっちゃうぞスタイル。
あとで家に帰って、念のため鏡の前でそのカッコを再現してみたら・・・。
あまりのカッコよさに気絶しそうになりました。

それはさておき、足柄古道の周辺は棚田があったり、
心洗われるようなのどかな里山の風景が広がっています。
水田の横に猪の皮が2頭分並べて乾してあったり、猪鍋でも有名な所です。
足柄は金太郎(坂田金時)の生まれ故郷とかで、生家跡があります。
本当に『跡』のみで、ただの土地ですが。
そして、神奈川県側から西へと古道をたどり、
静岡県に入った所にあるのが足柄峠です。
ここから見る富士山は、ただもう圧巻。 裾野の町まで一望です。
雄大で神々しいその姿が、霊峰という言葉とともに胸に染みいってきます。
昔の人達の、山岳信仰のマインドが理解できます。

途中で寄った『万葉うどん』は茅葺きの古民家の店で、
うどんもおいしいし、自家製のアイスクリームがとてもおいしい店です。
いろいろな種類があり、私は季節限定の柿のアイスを食べたのですが、
まったく柿の味。100パー柿。じゃ柿でいいのでは、というなかれ。
そしておでんは、おでんバーさながらにセルフで好きなだけ取って、
会計時に本数を自己申告すればいいという、太っ腹なお店なのでした。

この店は地蔵堂という大昔のお堂の近くにあって、
辺り一帯は江戸時代の東海道の旅人気分が味わえる、
超レトロでのんびりした、時間が止まったような村なのです。
食事を終え、うどん屋から出た私たちのあとから、
急用でもできたのかおじさんが走り出てきて追い抜いていきました。
そして店の前に駐めてあったクルマに乗り込んで、
(店の前は路駐大会だけど誰もなんにも言わない)
坂道をバックで、猛スピードで走り降りて行ったのには、もう唖然。
そのスピードたるや。
都会であんな猛スピードで坂道バックで走るなど、ありえません。
そんなことをしたらたちまち死傷者続出で、
翌日の新聞は「真昼の流血、殺人ドライバー」とか見出しが躍りそう。
その村では人通りもほとんどないけれど、
脇道から子供が飛び出す可能性もないということなのでしょうか。
というわけで、足柄の人々は、ゆっくり流れる時間の中を、
猛スピードでドライブすることによって、
結果、都会との時間の距離が縮まっているような・・・。
のんびりしている村の人たちほど速い、という教訓を得た出来事です。
そんな足柄・箱根の旅路。
子どもの頃の記憶をたどると、旅先の母はいつもおしゃれしていました。
ウエストをしぼったワンピースのスカートはパニエでも入れていたのか、
いつもふわっと広がっていました。
箱根神社の長い石段も、ピンヒールで登っていました。
当時の写真を見ると、旅先の男性陣はみなスーツにネクタイ。
研修旅行?ないでたちです。
時は変わり、今や旅もカジュアルなスタイルで行く時代。
背中にトートバッグ背負って、雄大な富士を眺めに行きたい今日この頃です。

原色ニットとフェロモンの関係

朝晩の風が心地よくなってきました。
涼しくなれば、着るモノも気になってきます。
秋風の訪れを感じさせる今日この頃、
肌触りのいいカーディガンが欲しいと思いはじめました。
先日、表参道で見かけたおしゃれな初老のフランス人(顔からの推定国籍)男性が、
グリーンのモヘアのカーディガンにピンクのタイシルクのシャツという、
フランスの老婦人みたいな色目のチョイスに、
大きめのシルバーブレスレットを合わせていて、
えらくカッコよかったのでした。
昔、アパレルメーカーでデザイナーをしていた頃、
ニット物の色展開にグリーンを入れると営業の人たちに
「緑はNG!売れないから!」とクレームがついたものです。
今から20年以上前の日本では、グリーンはあまり動かない色のようでした。
そんなわけで、グリーンをおしゃれに着こなしている人を見ると、
思わず目で追ってしまいます。
たとえばカーディガンなんかだと、黒、紺、グレー、茶、
あたりは男女共通の色ですし、
ワイン、サックスブルー、赤あたりも、男女OKの色といえます。
さすがにショッキングピンクや、
鮮やかなオレンジのカーディガンを着た男性はあまり見かけないけれど、
実はカラフルなものが着たいと思っている人はいると思います。
これもやはり、デザイナーをしていた頃ですが、
赤みがかったピンク、コバルトブルー、イエロー、黒、
などのマルチストライプのカーディガンとセーターを、
デザインしたことがありました。
モヘア素材でざっくり編んだビッグサイズだったので、
男女共有で着られます。
これが、男性にとても人気で、お得意先のショップの人達に聞くと、
買って行くのは男女半々だったとか。
ある店の男性店長は「全色買った」と言っていました。
その人もそうでしたが、男性で赤やきれいな色のニットを着ている人は、
ナヨッとしている人よりマッチョ系が多いような気がします。
原色ニットはフェロモンを刺激するのでしょうか?

今日本屋さんに行ったら、一人の男の子が雑誌を立ち読みしていました。
まず、視界に飛び込んできたのは、彼の髪の色。
明るいブルーで、お椀型の髪の、
耳の横あたりの一筋が鮮やかな黄色でした。
彼は襟と袖がとても長い白いシャツを着て、
ピンク系のアンティーク風編み込みベストを合わせ、
その下に淡いグレーのロングスカートに見えるパンツを履いていました。
それにしても明るいブルーの輝きを発する頭部。
オウムみたいだと思いました。
自然界にある原色の花鳥風月をコピーしたくなるのは、
人間のプリミティブな欲望かも知れません。
ともあれ、うちの近所のような、よくある私鉄沿線の、
地味な町の地味な本屋さんで、輝くブルーの髪はとても目立ちます。
これが動物なら、そく、女性にアピールするための原色ヘアですが、
人の派手さはそれだけが目的ではない。
つまり現代日本の少年が髪を青くする目的は、
子孫を残すためのみではない。
このあたりに、人類の進化と退化を見る思いでした。

これは、昔からよく言われることですが、
動物の中でオスが地味なのは少数派で、
たいがいの野生動物はメスよりオスのほうが、
派手だったりきらびやかだったりします。
これは、彼らの価値基準の中で、
そのほうが女性(メス)にアピールするから。
野生動物の使命は子孫を残すこと。
しかも、より強く、より優秀な種を残すために、
メスは、より立派なオスを選びます。
見かけが立派とか、立派な巣を作ってくれるとかね。
結果的に優位なDNAが継承されていくわけです。
これは、厳しい自然の中で生きる動物たちの当然の仕組みです。
オスの美しさがメスを惹きつける条件、という動物の代表と言えば、
なんといっても孔雀が思い浮かびます。
あの美しいゴージャスな羽根があるほうがオスで、
メスは茶色い羽根がちょろっとあるだけ。
オスはメスにアピールする時、羽根を思いっきり広げて、
ユサユサ揺らしながら迫ります。
「ほれほれ、どや!どや!!」という声が聞こえるようです。
一説によると、メスがオスを選ぶ基準は、
あの羽根の中にある目玉模様の優劣。
より大きく、くっきり鮮やか、
より数が多い方が優秀なオスなんだそうです。
理由として、今、考えられているのが、
くっきり鮮やかで美しい目玉を形成できる遺伝子のほうが、
免疫力も強く、丈夫で長持ちなんだとか。
孔雀に限っては佳人薄命じゃないわけです。
以前、ある離島で孔雀の一群が野生化して生息しているのを、
ドキュメンタリー番組で見ました。
その島に以前あったたホテルが観光客用に孔雀を飼っていたのですが、
閉館してしまい孔雀だけが残されて、
いつのまにか野生化しているというものでした。
で、その中に数羽の白い孔雀がいました。
人間の目から見ると、純白の孔雀はとても幻想的で美しいのですが、
メスの前で「どやどや」と羽根を大きく広げてユサユサ振って見せても、
とにかく目玉がないものですから、見向きもされません。
まさに目玉商品がない状態。
「何やってんの?アホちゃう」みたいな顔されてガン無視。
空しく羽根を閉じ、肩を落としてすごすご立ち去る白い孔雀。
そのうなだれっぷりったら、あんなにガックリしている孔雀は初めて見ました。
そして、彼ら白い孔雀のオス同士が集まって、
グループになっている様子はとても感慨深いものがありました。

 さて私たち人類は、厳しい自然界で暮らす必要もないので、
女性が男性を選ぶ条件はさまざまです。
野生動物のように、より立派な巣を作ってくれるオスを選ぶ人、
孔雀のように見かけが美しいオスを選ぶ人。
国の違いや人種の違い、そして個人のコノミでも違います。
たとえばファッション雑誌で見る限り、
20年くらい前までは、欧米では、よりマッチョな男性が好まれていました。
海外の男性ファッションマガジンの代表ともいえるルオモ・ヴォーグでも、
メインモデルはみんな、美貌で筋骨たくましいダビデタイプ。
女性もグラマー系が中心でした。
日本ではそれ以前から、メンズファッションのモデルはどちらかといえば、
スマート系や中性的なタイプ。
東洋人は一般的に、欧米人に比べれば顔も体つきも少年ぽく見えます。
それゆえ日本のファッション雑誌のモデルは欧米に比べて、
いわば草食系にみえるのかも知れません。
ところが最近の傾向は、欧米のメンズファッション雑誌のモデルも、
どんどん中性化しています。
コレクションに登場してくるのも、
昔のようなマッチョタイプではなく、
ほっそりした美少年タイプが急増。
まあ、スカート男子発祥の地であるコレクションですから、
あまりマッチョなモデルでは
『タイタンの戦い』みたいになってしまいますし。
最近「美人過ぎる男性モデル」として話題のアンドレイ・ペジックは、
ジャン・ポール・ゴルチエの
’11/’12秋冬メンズ・コレクションに登場するとともに、
オートクチュールコレクションにも女性モデルに交じって登場。
中性的なルックスでメイクしてランウェイを歩く彼は、
もう全くレディースにしか見えません。
インタビュー動画を見ると、しゃべり口調はかなりのオネエさん。
ゲイかどうかは明確にしていないけれど、
同性が好きでも異性が好きでもたいした違いはなさそう。
この手の男の子はとにかく「自分大好き」ですから。
ファッションデザイナーそのものは限りなく中性的な人が多いけれど、
ファッションの役割は孔雀の羽であり、
豪華な巣作りの保証書代わりであったはず。
服の未来はどこに行き着くのでしょう?
さらに女性モデルはグラマラスなタイプが減って、
美少年のように中性的なタイプが増えたので、
もう一見、どっちがどっちだかわからない感じ。
あのバーバリーのモデルも、20年くらい前までは、
彫りの深いニヒルなダンディという感じの男性が、
有名なバーバリーコートを着て颯爽と歩いている、
「バーバリーは冨と成功のシンボル!」
みたいな感じのモノでした。
最近ではあのハリー・ポッターのハーマイオニー役のエマ・ワトソンと、
ミュージシャンのジョージ・クレイグのような、
少年少女みたいなカップルがキャラクターをつとめていました。
肉食系の子孫繁栄的ビジュアルから、まだ将来性が不安定なヒヨコ系へ。
これは地球規模の路線変更のようですが、
少子化の昨今、おばさまをターゲットにしないで大丈夫なのでしょうか?
それとも青田買い的な、将来の顧客確保の準備でしょうか?

以前、ニュースキャスターの鳥越俊太郎さんにインタビューした時に、
少子化の話題が出て、原因は晩婚化や非婚、
シングルマザーへの冷遇など色々あるでしょうが、
「男性の精子の数も減っている傾向があるんでしょうか?」と聞いたら、
鳥越さんは、
「そうみたいだよ。やっぱり食べ物や環境の変化が原因だろうね」
とおっしゃっていました。

ニットの色味から地球の存続へと、思いは伸びて、暮れていく秋の日です。

ガバメント・シャツ

なんとなく秋めいた風が吹き始めています。
と同時に台風もやって来たりして。
そして新総裁も誕生しました。
新総理の野田さんは、あくまで見た目ですが、
久しぶりに、私たちが子どもの頃から見てきた、
昭和の政治家然とした政治家登場という感じがします。
思えば平成も20年を過ぎた頃から、麻生さん、鳩山さん、菅さんと、
政治家らしくない印象の総理が続きました。
麻生さんはマンガオタクだし、鳩山さんは宇宙人だし、
菅さんは学生運動家っぽいし。
まあ、学生運動家は裏を返せば政治好きなわけですけれど。
この3人は「政治家も変わったなあ、時代も変わったんだなあ」
と思わせてくれたものですが、
野田さんになって、一気に時代を遡った感じがします。
よくも悪くも、まだ日本が未来を信じて突き進んでいた時代の
ギラギラした皮脂に覆われている感じ。
昭和40年代後期から50年代初期くらいの感じ。
何がそうさせるかというと、
まあ、単純に顔つきと体つきと服のセンスだと思います。
ファッションセンスに関しては、実は菅さんとほぼ同じなのに、
なぜか菅さんは野田さんほどおっちゃんぽく見えない。
野田さんの方が年下なのに。
で、この二人はシャツのセンスがそっくりです。
白地のシャツにボタンやボタンホールの色が黒系で極端に際立つスタイルです。
しかも台襟の裏地に違う柄の素材があしらわれていたりします。
この手のシャツは、ピンとキリが激しいので、
ヘタに手を出すとファッション的やけどをします。
自分の服に関するポリシーがしっかりしていて、
シャツはこうあるべき、という信念のもとにピンを選んで着ているのなら、
それなりに説得力があると思うのですが・・・。
そうでなくて「ちょっとおしゃれに見えたいけどよくわかんないし。
こういうのがおしゃれってやつなのかな? 」
と迷いながら選んでしまうと、ほぼキリを引くし、
その迷いが如実に表面に現れてしまう面倒なタイプです。
「オレはファッションに興味ないんだよねえ」と宣言してるような印象になりがち。
迷いがある時は、無地やストライプを着ておく方が、ずっとおしゃれに見えます。
つまり、このあたりのボタンやボタンホールに色を持たせて、
アクセントにしているシャツは、
どうも体験版とか、サンプルセットのようなもの、という印象がぬぐえません。
正式のものではないけれど、
とりあえずこれでお茶は濁せる感が漂っているんですね。
濁せると思っているのは本人だけで、
正規のフルラインを愛用している人から見れば「ああ体験版ね」的な。
とりあえず服はどうでもいいんだなと思われると思いますが、
とはいえ「ボタンとボタンホールの色が変わっている」ものを選んでいる所が、
ちょっとお茶濁したい下心が透けてしまっているわけです。
ここで王道にして正統派の無地やストライプを選んでおけば、
心ある正統派でいられるものを。
というわけで、管さん、このシャツどうにかならないかと思っていた所に、
野田さんが勝利し、総理の椅子と、
色ボタンシャツを引き継いでしまったという・・・。
ライバル海江田さんは無地シャツ愛用者なので、
少なくともファッションセンス的に見れば期待したい所でした。
国会で思わず泣いちゃった時も、
淡いパープルか赤みがかったサックスのボタンダウンシャツ着用。
一方、国会きっての「濡れたまなざし」の持ち主、前原さんは、
このクールビズのご時世でも、ノーネクタイの印象がありません。
いつテレビで拝見してもしっかり締めてます。
菅さん以前の総理というと、やはりオシャレ度が高いのは麻生さん。
スーツはいかにも高級そうなビスポークだし、
外遊した時に飛行機のタラップ上で手を振っていた時のコートは、
テレビ画面でもはっきりと伺えるほどのしなやかさと上品な艶。
もうカシミア100パーで間違いありません。
夏は無地のシャツかストライプ。
たまにクレリックシャツを着るくらい。
時たまポケットチーフもあり。
一方、鳩山さんは、というと、
オフの時はハート模様や花のモチーフが入ったシャツも着て登場するし、
あの奇天烈な色あわせのシャツで「ルーピー」とすら言われてしまったほど。
とりあえず個性派ということはわかります。
最近は大人しめなカッコですよね。
民主党といえば原発事故直後、連日の記者会見で一躍時の人となった枝野さん。
当時は作業服の襟を立てたスタイルがなんだかなあと思いましたが、
平時の枝野さんはおしゃれです。
無地かストライプのボタンダウン派で、
夏場は綿素材らしきジャケットを着用。
枝野さんと似たファション感覚の持ち主が細野さん。
この方もまた、シャツは白かストライプのボタンダウン派です。
お二方とも、デパートに入ったメンズセレクトショップで、
服を揃えている40代前後のビジネスマンのスタイリングという感じがします。
そして、印象的なスタイルといえば、自民党総裁の谷垣さん。
この方はしばしば、台襟だけのシャツという、文化人好みなチョイス。
襟が極めて小さくて胸ポケット2個付きというような、
変形デザインも着こなす派です。
谷垣さんの場合は、ソフトな風貌が政治家らしく見えなくて、
このデザイン重視なセンスも今の所、
無理矢理っぽくなくてナチュラルな感じがします。

というわけで、久しぶりに政治家っぽい風貌の野田さん。
これからどんなファッションを・・・ではなく、
どんな政治手腕を見せてくれるのでしょうか?

焼き鳥屋のつぶやき

そろそろ猛暑も越えたか?と思われる今日この頃。
みなさまいかがお過ごしでしょうか?

先日、近所の焼き鳥屋さんの前を通りかかった時のことです。
カウンターだけの小さな店で、店の前に小さなテーブルと椅子が置いてあります。
とはいえイマドキはやりのオープンカフェのような小じゃれたものではなく、
失礼ながら粗大ゴミの日に路上に放置されたテーブルと椅子のほうが、
まだマシじゃないか?と思えるような、そんなレベルのポンコツっぷりです。
しかも、店の前がセットバックしているわけでもないので、
もろ、路上に置かれている状態です。
とはいえ昨今のオープンカフェ効果やお花見文化に慣れ親しんだ国民性もあり、
路上で飲食することへの抵抗はあまりないのかも知れません。
などと思いつつ、ガテン系中年男性2人が飲んでいる真横を通り過ぎようとした瞬間、
ひとりがもうひとりに「フェイスブックやってる?」
とたずねたのには、ちょっと驚きました。
聞かれた男性は「ああ?」と質問の意味を理解していなさそう。
「フェイスブックいいよお、やんなよ、え、じゃあツイッターは?」といったあたりで、
私は彼らの会話が届かない距離まで来てしまったのが残念でなりません。
フェイスブックの何がカレをこんなに魅了しているのか、
そして何をつぶやいているのか、ぜひその全貌をお聞きしたい所でした。
先日、オーストラリアから里帰りした私の友人AちゃんのパートナーDは、
2年前フェイスブックで日本女性と知り合いメル友になったのですが、
その日本女性の家はなんと、Aちゃんの東京の実家のすぐ近所という、
驚愕の事実が判明し全員びっくり。
なんとDは、20年以上前に知り合ったリアルパートナーと、
2年前に知り合ったオンラインのメル友を、同じ町内の住人から引きあてたという、
驚異のピンポイント攻撃にして驚異の命中率を誇るのでした。
地球は広いっていうのに。
で、うちの近所の焼き鳥屋で飲んでるおじさんとも、
いつかDは必ずやフェイスブックで巡り会う日が来るだろうと信じています。

というわけで、インターネットがめざましい進化を遂げたのは、
世紀が変わった頃からでしょうか?
それまではパソコンがある家も限られていました。
’90年代後期まで私が住んでいたマンションの住人は企業のサラリーマン家庭が多く、
そういう家には必須アイテムとしてパソコンがありました。
会社のIT革命に乗り遅れないように、
お父さんたちは涙ぐましい努力をしていたわけです。
でも、まだネットやメールを活用している家庭は少なかったように思います。
2000年を過ぎるとブロードバンドも発達して、
大容量の物が高速で送れるようになり、定額制度が広まったおかげで、
家庭におけるパソコンの役割は急速に拡大して行ったわけです。 
さらに最近は、スマートフォンやタブレットの普及で、
パソコンを使わずにネットにつながるヒトが急増しています。
それ以前から10代の子達のネットはもっぱらケータイ。
スマホどころか、あの小さなケータイの画面で、
ネットにつなげているのだからツワモノです。

そんな今日この頃。
アップルのCEOであるスティーブ・ジョブスが辞任を表明しました。
パソコンといえばウィンドウズが圧倒的ですがマイノリティであるMac派にとって、
アップルの共同創設者のジョブスはカリスマ的存在です。
ジョブスと、マイクロソフト創設者であるビル・ゲイツとは奇しくも同い年。
彼らはまだ大型計算機であったコンピューターに高校生の頃に出会っています。
二人の生育環境は対照的で、かたや裕福な家庭に生まれ育ったお坊ちゃまのゲイツ。
地域で一番授業料が高い高校を経てハーバードへ。
かたや、未婚の母から生まれたジョブス。
父に当たる人はシリア人の政治学者で母親も大学院生だったというから、
頭脳的には恵まれていたのだと思います。
実母は最初から子どもを養子に出す予定で出産し、大卒の里親を捜していたのに、
申し出たジョブス夫妻は高卒と中卒だったので躊躇したとか。
それでも、夫妻が必ず息子を大学に進学させると約束したので養子縁組が成立。
実際、ジョブス夫妻は裕福ではなかったけれど息子をリード大学に進学させました。
でも、彼は大学に進んでから迷います。
決して経済的に余裕があるわけではない両親が、
懸命に貯めてきたお金を授業料に費やしている。
そのことに意味を見出せなくなって、彼は大学をやめてしまうのですが、
やめたあとも大学に通い、
哲学やカリグラフィ(西洋書道)の授業にもぐりこんでいました。
この時に学んだ美しい文字や文字間のあけかたなどが、
のちにマッキントッシュのタイポグラフィーづくりに役立ったのだそうです。
「もし、あの時に大学をやめていなくて、必須科目以外の勉強をする余裕がなく、
カリグラフィーの美しい文字に出会っていなかったら、
マックに美しいフォントが組み込まれることもなかっただろう、
でも、当時はそれがあとになって役立つなんて考えもしなかった。
ワカモノよ、あとになってプラスになる・ならないなんて、今考えることはない、
大事なのは自分のやりたいことを自信を持ってやることだよ、
それがあとになって点と点で結ばれるから」
と彼は、スタンフォード大学の卒業式に招かれた時にスピーチしました。
これは「伝説のスピーチ」といわれています。

ジョブスが画期的だったのは、
それまで特殊な業種のための計算機であったコンピューターを、
誰もがボタンひとつで操作できる家電に仕立てたこと。
さらに、生演奏以外はレコード盤やCD盤という形あるものだった音楽を、
拡張子で通信するものに変えてしまったこと、
さらに、パソコンを封筒に入れてしまったこと(iPad)。
そして、なんと言っても彼の特徴は新製品を発表する時のファッションです。
そんなハレの舞台で、ここぞという大勝負をかける時、
ジョブスの勝負服はいつもTシャツにジーンズ。
でも、iMacの花柄や水玉模様モデルを紹介するために来日した時のジョブスは、
珍しくシャツにネクタイというスーツ姿でした。
そして、アップルを創設した頃の若かりし彼も、
たいがいシャツにジャケットというスタイル。
(しかも超イケメン!)
その後、ふくれあがっていく資産に抵抗するかのように、
Tシャツとジーンズという柔な服に着替えたジョブス。
アップルの基調講演での勇姿をもう見ることができないと思うと寂しい限りです。
以前から悪性腫瘍と闘っていて、ここ数年の彼は痩せて、
燃え尽きたのかとさえ思える体つきでした。
辞任の理由は体調悪化のようです。
これほどの原動力を失って、これからアップルがどうなって行くのか、
Macファンとしては気になって仕方ないといった所です。

ニュースはネットで読み、音楽もネットで聞き、映像もネットで観て、電話はスカイプ。
そんな人たちが増えていて暮らしの道具はどんどん変化しています。
少なくとも、パソコンは今、仕事道具であると同時に、
ほとんどのヒトにとって楽しいオモチャでもあるという、
ひとつで何役も兼ねてしまう機能的な物体です。
これで材料さえ入れれば調理してくれるという家電が登場してパソコンにつながれば
おまけにパソコンがロボット型になって、コノミの性格やルックスが選べるようになれば、
人類は絶滅に向かうんじゃなかろうか、恋愛や結婚がばかばかしくなって。
とか思ったりする晩夏の夜です。

*モデルさんの広告写真?というくらいのイケメンは1984年の若きジョブス。
80年代らしいシルエットのスーツ。案外コンサバ?
ちなみにこのパソコンに似たやつ、うちの事務所にあります。

ココロ鎮まる川

現実の世界では夏真っ盛りですが、
エディトリアルではすでに秋冬の企画が
進行しています。
そして夏といえば開放的な遊びの季節、
秋といえばその反動で落ち着こう、
という傾向があるような気がします。
最近、「リラックス」や「ヒーリング」
「メンテナンス」をキーワードにした
取材や撮影が続きました。
猛暑と節電の夏が過ぎ、弱った体と気持ちをメンテナンスしましょう、
というコンセプトのものがひとつ。
これは、健康にまつわる情報誌の企画で、
気分を落ち着かせるような香りのハーブティを飲んでゆっくりしよう、
音楽聴いて癒されよう、お風呂でセルフマッサージしよう、
という、「いかにリラックスするか」の提案をもとに撮影しました。
音楽を聴いてリラックスするというのは実際、
音楽療法という名前まであって、その効果が実証されています。
でも、何を聴いてリラックスするかは人それぞれですよね。
クラッシックが何よりという人もいれば、いやいやジャズだね、
そこはレゲエでしょ、断然ワールドミュージックよ、いやロックだろう、
とそりゃもう十人十色なはず。
私の場合は、いわゆるヒーリング音楽は苦手です。
たとえばCDショップやヒーリンググッズの店に並んでいる癒し系CDには、
逆にいかにも「癒されろ」的魂胆を感じて全く癒されません。
というわけで、仕事に行くときはやや戦地に赴く気分でハードな音、
イギリスの80年代のオルタナティブ系なんかで気合いを入れてます。
逆に戦い終わって日が暮れて、家路に着く電車の中では、
お気に入りのJ-POPのシンガーの曲なんかを聴いていることが多いです。
イヤフォンからの音が頭蓋骨にシャワーみたいに降り注いで、
心身の疲れを癒してくれます。
最近、ちょっとお疲れ気味なので、南国の海辺で波音聴いてうたた寝したい、
海原を染める夕陽をまぶたに感じながら、なんて思うわけですが、
時間が圧倒的に(まちょっと予算も)不足しております。
じゃあ、ハワイとかバリ島とかゴアとかイビサとかの海の、
波の音だけ入ってるCDとかかけて、寝転がって目を閉じれば、
別にうちでもOKなんじゃない、目、つぶってりゃ本棚とか見えないし。
そりゃいいことに気がついた、居ながらにして家庭内イビサだわ!
という画期的な真実に気づき、今、波音CD物色中です。

昨日は、とあるエクササイズ法を考案した先生の本に掲載する、
ポーズ集の撮影がありました。
モデルさんにポーズをつける先生。
その合間に取材しながら「実は右腕が上がらなくて」と先生に相談したら、
効果的なエクササイズを教えてくれて、その場で直接指導していただきました。
で、やってみたら、その直後は治ったのですが、あれから12時間。
また戻ってます。
ま、継続してやらないとダメですね。
先生いわく、筋肉は緊張すると硬くなる、すると血行が悪くなる、痛みが出る、
だから、緊張した筋肉をリラックスさせてあげればいい、
すべてはそこから始まる、のだそうです。
筋肉もリラックスしたい時代なんだわ。

何かと大変な世の中ですから、溜まったストレスがココロに来たりカラダに出たり。
近頃は大人はもちろん子どもばかりか、
犬や猫すらストレスを抱えているんだそうです。
ポイントは、どうやってストレスをなだめすかしながら、
歩を進めて行くか、でしょうか。
私のとっておきの気分転換法は、近所の川に行って水の流れを眺めること。
せせらぎを聞き、止まることなく流れ続ける水を見ていると、
いつのまにやら私のカラダの中まで川が流れ出して、
うっとうしいものがいっしょに流れて行く様な気がするのです。
10分ほどそんな感じでいると、かなりすっきりします。
いわば、ココロの洗濯ってやつでしょうか?
そして、川辺の野草を撮影して帰る頃には、鼻歌のひとつも出ようもの。
川辺には今、そんな洗濯家(せんたくや、でなく、せんたくかと読んでいただければ)
らしき人々がたくさん集っています。
大きな犬と並んで水際に座っている人、男子2人で並んで座っている人、
カラスと並んで座ってイヤフォンで音を聴いている人、
いつまでもただ、走る川面を眺めている人。
水に流すとはよく言ったもので、川に集う人々の様々思いを浄化しながら、
今日も川は流れて行きます。

アナログ最後の日

2011年7月24日。
アナログ放送が終了しました。
1953年に開始したアナログ放送が58年の歴史を、正午に終え、
25日深夜0時に完全に停波しました。
ついにこの日が来たんだなあという気がします。
あと2年、あと1年、あと半年、あと1ヶ月・・・。
みなさんはカウントダウンのどのあたりで、地デジを準備されましたか?
我が家では、半分が2年前に地デジ化を済ませ、
半分のテレビは先月やっと地デジになりました。
放送関連の広報紙に関わっているので、この半年、
ずっと地デジの情報を書いてきました。
「地デジの準備はお済みですか?」と書きながら、お済みじゃないですと内心答え、
こうなったらぜひ、ブルーバックに「アナログ放送は終わりました」の
文字が表示されるのを、この目で目撃したいもんだ!とずっと思っていました。
が、やはりカウントダウンが迫れば慌てて家庭内の全テレビを、
地デジ化してしまった気弱な凡人であります。
 そんなテレビですが、最近本当に見なくなったというのが正直な所。
食事の用意をしている時にニュースを見る、ご飯を食べながらちょっと見る、
しかも、震災以降は圧倒的にNHKです。
あとは、もし時間があればDVDを見たりパソコンで何かを見たりしているし。
あるいはケーブルテレビに加入して、映画や音楽、スポーツ、
アニメの専門チャンネルを見ている人も多いのではないでしょうか。
それでも時たまテレビを見ると、たとえばバラエティなんかで、
肝心の時にCMが入って待たされる。と、もうイラッとします。
結局これがテレビ離れの原因なのだと思います。
テレビはコマーシャルを見せるための装置で、
すべてのテレビ番組はスポンサーのお知らせを伝えるために作られているのだから、
視聴者はコマーシャルにつきあわなければならない。
その図式にときたまうんざりしてしまうので、
「いいところでコマーシャルになった」とたん、それを潮時にテレビを消して、
ほかのことをしてしまうというわけです。
その反面、コマーシャルには優れたモノも多いし、
録画しておいた番組を数年ぶりに見ると、
コマーシャルのあまりの懐かしさに番組そのものより感慨深いこの皮肉。
ともあれ、ケーブルテレビやパソコンは自分の好きなモノを好きな時に、
自分のペースで楽しむことができる。
その魅力を知ってしまった現代人には、一番知りたいことの前にCMが3分入って、
CMタイムが終わるとまたスタート地点まで戻されて、
ヘタするとまたしてもCMが入る、
なんていうテレビの王様加減につきあう程ヒマじゃないと、思えてしまいます、
ほんとはそれほどヒマだったとしても。
そんなテレビですが、昭和の頃は本当に、
「なんでも見せてくれる、ときめきの箱」でした。
 私が子どもの頃はアメリカのテレビ番組に夢中になったものです。
 ポパイとか宇宙家族ロビンソンとかモンキーズとか。
 トムとジェリーに出て来るチーズにはなんであんなに穴があいているんだろうとか、
興味津々に見入っていたものです。
 お笑い番組でコント55号をはじめて見て、息が止まるほど笑い転げた日のことも、
ものすごくよく覚えています。
 日本のドラマの秀作もたくさん生まれましたが、
何故か今、思い出すのは音楽に絡んだ番組です。
 インターネットがなかった頃、海外の音楽シーンを
垣間見せてくれるのはテレビでした。
私が生まれ育った東京のローカルテレビは、
12チャンネル(地デジでは7)、テレビ東京です。
この局は大昔、まだ番組がたくさん作れるほど予算がなかったらしく、
午後3時くらいから5時頃までの時間帯は番組の間にスポットとして、
海外からの映像を流していました。
それがなんとたいがい英国のポップミュージックのプロモーション映像で、
ロック少女だった私にはヨダレが出るほど嬉しいシロモノでした。
ニッティ・グリッティ・ダート・バンドなんていう、
かなりコアなバンドの映像もここで観ました。
当時は来日する以外ではバンドのメンバ―が動いている姿など、
見られるチャンスがなかったのですから、このテレビ東京のスポット放送は、
かけがえのない宝物のような存在だったのでした。
 そんな時代に始まった画期的な音楽番組がビート・ポップスです。
 土曜日の午後3時からなので、当時中学生だった私は家に走って帰ったものです。
 ディスコクラブ風にしつらえたスタジオで、
DJブース風な段の上に司会の大橋巨泉が座り、
当時のミュージック・ライフ編集長の星加ルミ子や、
ティーン・ビート編集長の木崎義二なんかが脇を固めていました。
大橋巨泉がオヤジなだじゃれで曲を紹介するのですが、
たとえばデイブ・デイー・グループの「キサナドゥーの伝説」なんて、
「木更津の伝説」だったし。
映画紹介コーナーもあって、それもだじゃれのコントではじまります。
「100挺のライフル」を紹介した時は、
藤村俊二がお百姓さんのカッコで桶をかついで登場、
「百姓のライフル」とつぶやくという、だじゃれ好きにはたまらない場面の連続でした。
洋楽のランキングを紹介しつつ、最新情報や映画紹介コーナーもあるという、
音楽といえば歌謡曲が主流だった当時にしては画期的にして、
今の情報バラエティのプロトタイプになったような番組でした。
私はこの番組でローリング・ストーンズの「黒くぬれ」をはじめて聞いて、
以来ストーンズのファンになったのでした。
この番組、曲をかけている間は、スタジオで、
「ゴーゴー」を踊っている若い男女の観客を映し、
その合間にはターンテーブルに載って回っている、レコード盤も映し出されるという、
今にして思えば何がおもしろいのかと思いますが、それもまた画期的だったわけです。
大橋巨泉は伝説の深夜番組「11pm」においても代表的な司会者の一人でした。
このヒトは60年代にいち早く洋楽を紹介したり、
海外にロケに行き、たとえばヨーロッパで若者に人気のクラブに侵入という場面で、
勇敢にもダンスフロアで踊ったりしていたのですが、
いつもピークドラペルのタイトなスーツに白シャツ、ネクタイというスタイル。
七三の髪に黒縁メガネもトレードマークでした。
今や、ビジネスシーン以外で、海外旅行に、
スーツにネクタイで挑むヒトはいないでしょうし、
巨船さんのスーツ姿は時代の記憶の絵として強く印象に残っています。
スタイリングのチョイスだけでいえば、
フェデリコ・フェリーニの「甘い生活」における、
マルチェロ・マストロヤンニにもひけを取らないダンディーさでした。
この番組は70年代に入ると、愛川欽也が司会の日に今野雄二という、
先鋭的な音楽評論家が参加していて、
当時のイギリス音楽シーンの最新情報を映像とともに紹介してくれました。
クラッシュというイギリスを代表するパンクバンドの、
「ロンドン・コーリング」のPVや、
サイケデリック・ファーズというオルタナ系バンドのデビューシングルのPVも、
11pmではじめて見て、ものすごく興奮したのを覚えています。

80年代初期の「夜のヒットスタジオ」もなかなか隅に置けない番組で、
時たま英国のスタジオからの中継と称して、
イギリスのニューウェイブバンドを紹介したりしていました。
五木ひろしの演歌のあとにエコー&バニーメンが登場するという、
非常にグローバルかつ、並列に扱うことによって、
ある意味すべてがワールド・ミュージックと化してしまうという、
とても興味深い現象が起きる番組でした。
そして80年代半ばに入ると、MTVがはじまりました。
マイケル・ジャクソンはもちろん、シンディ・ローパーや、
あのヒトやこのヒトたちのPVに見入ったものです。
東京では日曜の深夜に放送され、2時頃にMTVが終わると、
また明日から一週間がはじまるという独特の気分・・・、
(唄子・啓助の「おもろい夫婦」も日曜夜で、
終わった時同じ思いにかられました)
あの番組を思い出すとそんな気分が蘇ってきます。
MTVがきっかけでヒットした曲はたくさんありますが、
「Video Killed a Radio Star」 もそのひとつでした。
テレビの登場によってラジオのスターの活躍の場が、
奪われてしまったという内容で、バグルスのヒットソングです。
その後「Internet Killed a Video Star」 というパロディソングもありました。
映像はマンガぽいアニメで、
マイケル・ジャクソンを思わせるシンガーがテレビで歌っています。
でもテレビ画面はミュート(消音)になっていて、
部屋の住人はテレビに背を向けてパソコンに夢中。
しまいにはテレビを押し入れに投げ入れてしまうけれど、
テレビではまだシンガーが歌っているという。

今、音楽はyou-tubeを見ればたいがいのモノが見られて、
iTunesからその場でダウンロードできます。
 地球の反対側で昨日生まれたばかりのバンドの音と姿を、
今日、ネットを通じてみることもできます。
あるいは、30年も前のパンクバンドの、今は亡きボーカリストの姿も、
見たい時に検索して見ることができます。
 それは確かに奇跡のようなことかも知れません。
 果たしてインターネットはいつ、誰に、どうやって殺されるのでしょう?
 

宇宙でポロシャツを。


                               (写真はNASA提供)

 宇宙の果てってどうなってるんだろう?
 そもそも宇宙に「果て」はあるのか・ないのか? 
 子どもの頃、「果て」を考えると、いいようのない不安に襲われたものです。
 ともあれ宇宙好きで、ハインラインとかの少年少女向けSF小説を読みあさっていました。

 先日、スペースシャトル「アトランティス」の打ち上げがありました。
 打ち上げから2日後、シャトルは無事に宇宙に浮かぶ国際宇宙ステーションに到着し、
ドッキングも成功。
 開始以来30年を経たスペースシャトル飛行計画も終止符が打たれ、
これがシャトルにとって最後の飛行になりました。
 スペースシャトルといえば思い出されるのが、1986年のチャレンジャーの事故です。
 あの日、打ち上げを現地で見守っていた人、あるいは実況中継をテレビで見ていた人達の目前で、
大空をグングン上昇して行ったチャレンジャー号。
アラビアのモスクに巨大な蛾が張り付いたようなシャトルの姿は、
どこか厳かで空飛ぶ寺院のようにすら見えました。
次の瞬間(正確には打ち上げから73秒後)、私たちが見たのは、
青い空を背景に音もなく白煙が盛り上がっていく光景でした。
それは長く首を伸ばした白鳥のようなシェイプを描きながら、
モクモクと成長していきました。
何が起こったのか、世界中が呆然となっていた最中、管制官の声が聞こえたのです。
“”The vehicle has exploded. Flight controllers are looking very carefully at the situation.”
「乗り物は爆発しました。私たちは状況を注意深く見守っています」
そのクールな口調は当時の私に、世界一落ち着いている男と思わせてくれました。
SF映画「2001年宇宙の旅」に、HALというコンピューターが登場します。
彼は非常に優秀な人工知能で、しまいには人のような感情をもち、
意のままにならない他者を排除しようと殺人すら犯します。
しかも、悪事がばれて彼の生命維持装置である電源が切られそうになると、
歌を歌って相手の情けにすがるという、きわめて人間的な手段に出ます。
そんなHALは、ヒトのような感情を持ちながら、決して激することなく、
その口調は常に冷静沈着です。
チャレンジャーの事故を伝える管制塔のヒトは、
本当にHALさながらの落ち着きっぷりでした。
誤解を恐れずにいうなら、爆発の映像の美しさとクールな口調が妙にシンクロして、
あの事故は記憶に強く刻まれています。
 ともあれ、この事故と2003年に再度起こった事故によって、
スペースシャトル計画は終息へと向かわざるを得なかったと言われています。
 そんな事故から25年。再び実況中継された最後の飛行。
 この四半世紀で、アメリカも世界も大きく変わり、そしてもちろん、
日本はここにきて大きく変わりました。
ここからの近未来、世界はどんなふうに変わっていくのでしょうか?

 宇宙や近未来を描いたSF映画のランキングが、先日英国の映画雑誌で発表されました。
そのベスト3は、
 1位・ブレードランナー
 2位・スターウォーズ・帝国の逆襲
 3位・2001年宇宙の旅
というラインナップでした。
 ブレードランナーが1位というのが、ちょっと意外な気がします。
鬼才リドリー・スコットの監督作品でとても好きな映画だし、
近未来の街の舞台がトーキョーもどきというのも日本人としては親近感を覚えるし。
でも1位というのはアリか? 
やっぱりイギリス人のサブカル好きというか、へそ曲がりというか。
この映画、日本で投票したら絶対1位にはならないんじゃないかと思います。
2位の帝国の逆襲。宇宙もの近未来ものといえばお子様向けが多かった時代に、
子どもだましでないマジなSF映画が出てきたと思わせてくれた作品です。
ワクワクさせてくれると同時に、すべての造形がものすごくアーティスティックで、
普通でいえばこっちが1位のはず。
そして3位の「2001年宇宙の旅」は、SFとかの枠を取り去っても私の中で名作中の名作。
誰もが抱く(であろう)宇宙の神秘への好奇心や恐れをこれほど如実に哲学的に、
かつ造形的に描いた映画は、これがはじめてではないでしょうか? 
しかも、何がすごいって、宇宙を静かに進んでいく宇宙船の映像に合わせた音楽が、
近未来的な電子音などでなく、優雅な「美しき青きドナウ」。
そしてメインタイトルのBGMは「ツァラトストラはかく語りき」。
前編通してクラシックの名曲が選ばれています。
近未来の映像にあえて古典的な音楽を合わせる事によって、
空間が時間的な縛りから解放されているのでした。
そして、さらに「2001年〜」が画期的なのは、
宇宙船の乗組員が宇宙服ではなく、ポロシャツを着ていること。
もう、はじめてこれを見た時は、まさに目からウロコでした。
近未来を表す際にはスペーシーな服というのが長年のお約束であったはずなのに、
監督であるスタンリー・キューブリックは真逆のことをやってのけたのです。
つまり、宇宙船の中で普段着のカジュアルウェアを着ていられることこそ、
科学が進歩した近未来での環境なんですよ、ということを示したのでした。
そのアプローチは当時本当に新しくて、
2001年は宇宙でポロシャツなのだと私は軽い感動を覚えたものです。
そして今、遠い宇宙から送られてくる映像を見ると、
国際宇宙ステーションの中の人たちはポロシャツやラガーシャツ、
ドレスシャツといたって普通。
短パン着用の人もいて、スペース・クールビズなのでした。
「2001年〜」というのは映像的にも優れた映画だけれど、
音楽やファションという時代の影響をうけやすい分野において、
普遍のものを選ぶことで古くなることを回避しています。
だからこそ、この映画はいつ見ても新しくて斬新なのだと思います。

その点、ブレードランナーは時代を感じさせる映画です。
そのあたりもおもしろいけどね。
個人的にはSF映画といえば「バーバレラ」や「A.I.」「地球に落ちて来た男」を入れたいところ。
10位内に「未知との遭遇」が入っていないのも不思議です。
それまで宇宙人といえば「侵略者」だったのが、はじめて友好的な宇宙人を描いた
ということでは画期的だと思うのですが。
一方「バーバレラ」は、ポップでファッショナブル、かつエロティックなSF映画です。
その後政治活動にのめりこんで闘士になってしまったジェーン・フォンダが、
まだ若く美しくセクシーな女優で、
ロジェ・バディムというこの映画の監督の愛妻だった頃の作品。
ジェーン・フォンダの美しさと抜群のスタイルとコケティッシュな魅力が堪能できる逸品です。インテリアや衣裳も今見るといかにもシクスティーズなレトロモダンでおもしろい。 
古き良き近未来の世界観をたっぷり楽しめます。
ちなみに悪の女王的な役どころで登場するアニタ・パレンバーグは、
ローリング・ストーンズの伝説的初期メンバー、故ブライアン・ジョーンズの元恋人で、
その後キース・リチャードの恋人になったヒト。
中性的な美貌で、美青年のブライアンとは「双子みたいなカップル」と言われていました。
近未来映画ながら、60年代当時のヨーロッパのヒップな空気が伝わってくる作品です。

一方「A.I.」は、感情を持ったロボットとヒトとの交流を描いたSF作品。
これはスタンリー・キューブリックが温めていた企画だそうで、
その意志を継いで親交のあったスピルバーグが脚本・監督・制作を手がけた作品。
とくにロボットの息子とヒトの母親との別れは、涙なくしては見られません。
さすがキューブリックの元ネタという、「2001年〜」に通じる哲学的な匂いのする作品です。
後半ちょっと「長・・・」と思いましたが。
「地球に落ちて来た男」はニコラス・ローグの監督でデヴィッド・ボウイ主演、
1976年のイギリス映画です。
 宇宙から「落ちて」来て、帰れなくなった男の物語なのですが、
カフェで飲んだくれている宇宙人というのが斬新な作品でした。

 ともあれ、時代とともに、近未来の捉えかたは当然変わってきます。
「2001年〜」や「バーバレラ」が作られた1960年代後半から見れば、
40年後の現代はまさに近未来。
ロケットは確かにあって宇宙ステーションもあるけれど、
あの時代に予測したほどは発達していません。
その変わり、当時はその片鱗もなかった、ケータイ電話が見事な発展を遂げています。
 
ピエール・カルダンが宇宙ルックを提案したのが1968年でした。
そして、アポロ11号が月面着陸を果たし、人類がはじめて月に立ったのが1969年。
「人類にとっての偉大な一歩」を刻んだ飛行士が、
月面に星条旗を打ち立てたのを見た時、
誰のものでもない美ししいものを誰かが勝手に「俺の!」と言って、
ワシづかんでしまったような、軽い不快感を感じました。
もう今となっては、国際宇宙ステーションでミッションを遂行する日本人の姿も見慣れ、
アメリカでも日本でもどっちでもいいやという気になっていますが。
原発の事故直後、この事態がもっと悪化したら、
もう地球上どこに逃げても放射線から逃れられないなどと言われたものです。
こうして人類は地球を追い立てられていくんだろうか、
でも、まだ全然準備が整っていないじゃないと思ったものです。
 そう、「2001年宇宙の旅」では人類は月に移住しているけれど、現実ではまだまだ。
月面でポロシャツやドレスシャツを着て暮らせるようになるまで、
なんとか地球をもたせて欲しいものです。

ちなみに「史上最高のSF映画ベスト10」は、下記の通り。
1位『ブレードランナー』(82)、
2位『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』(80)、
3位『2001年宇宙の旅』(68)、
4位『エイリアン』(79)、
5位『スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望』(77)、
6位『E.T.』(82)、
7位『エイリアン2』(86)、
8位『インセプション』(10)、
9位『マトリックス』(99)、
10位『ターミネーター』(84)

まあ、古いのばっかり。
近未来に思いを馳せていた、あの頃が懐かしいという結果のような気がします。

 

 
 

「一丁倫敦」を歩く

 知り合いのプレスの方から退職のご挨拶メールがきました。
 パリのブランドの日本代理店で仕事をしていた人です。
今後は、「心機一転イギリスで生活を始める予定でいます」とのこと。
数ヶ月前には雑誌エルデコでずっとおつきあいがあった編集部の方が、
やはり退職されて、しばらくロンドンで暮らしてみるとのこと。
二人とも、パリでなくロンドンというのが、ちょっと意外な気がしました。
友人のデザイナーも今、ロンドン移住を模索中です。
別の友人のお嬢さんは夏からロンドンの美術学校に留学されるし、
最近、ロンドンというキーワードがちょくちょく耳に入ってきます。

あの街は私にとって、トータルで5年近く暮らした、とても親しみのある所なので、
通りや家並みを思い浮かべると、懐かしさがじんわりと身内に広がってきます。
はじめてロンドンで暮らして帰国したあと、あの街が恋しくて仕方ありませんでした。
もう数十年も昔のことなので、当時、
ロンドンの街並みや空気感が感じられる唯一の場所は銀座や丸の内でした。
クラシカルで重厚な英国式の建物が建ち並び、
セヴィル・ローのような仕立屋やパブ風の店もあったりしたのです。
それは、明治時代、日本政府が英国から建築家を招き、
ロンドン直輸入の設計で建てた赤煉瓦のビル街の名残です。
実際、丸の内は明治時代に「一丁倫敦」と呼ばれていたのだそうです。
今風にいえばプチロンドンでしょうか? 
そんなプチロンドンを形成していた赤煉瓦の建物は、相次いで老朽化し取り壊されて、
今ではめっきり姿を消しています。
とはいえ、1914(大正3)年開業の東京駅の赤煉瓦の建物はじめ、
丸の内や銀座界隈は、明治や大正の人々が近未来を見据えて街づくりしただけあり、
今でもほかの東京の街とは異なる、独特の都市の空気を感じさせます。
東京駅は今、東京大空襲で消失した屋根部分を復元工事中で、
来年6月にはドーム型の屋根を持つオリジナルの壮麗な姿が再現されるそうです。
駅周辺は新丸ビルや丸ビルをはじめとした高層ビルが建ち並び、
日本を代表するビジネス街という言葉通りの景色が広がっています。
旧丸ビルは大正12年に竣工した日本初のショッピングモールでした。
ちなみにうちの祖父は旧丸ビル内にあった美術品店の番頭(今の店長ですね)で、
店員だった祖母と恋愛の末、結ばれたのでした。
我がジジババが先鋭的な社内恋愛を育くんだ旧丸ビルは1999年に取り壊され、
2002年に旧丸ビルの3階部分までを再現した新ビルが開業。
その丸ビルを右手に見て、国道402号を南下していくと、
この街のランドマーク的な建物のひとつ、三菱一号館美術館が見えてきます。
英国式赤煉瓦の建物の背後に、
現代的なガラス張りの高層ビルがぴったり寄り添って建っている様子は、
まるでフォトモンタージュが生み出したフェイク画像のようです。
「三菱一号館」ビルは、1894(明治27)年、
英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計した、丸の内初のオフィスビルでした。
建物全体の優美なロココ調のデザインは、
19世紀後半に英国で流行ったクイーン・アン様式なのだそうです。
昭和40年代初期に老朽化で解体された建物を、2002年に忠実に復元。
現在は美術館と、明治の銀行を復元した部屋がカフェになっていて、
古き佳き時代の面影を愛でつつ、まったりお茶することができます。
赤煉瓦のビルと新しいビルの間の細い道を入って行くと、
中庭が広がる丸の内ブリックスクエアがあります。
まるで、ロンドンの公園の一角のような中庭に面して、
フレンチの巨匠が監修するブーランジェリーとパティセリー、
「ラ・ブティック・ドゥ・ジョエル・ロブション」などがあります。
ここのガレットはさすがにおいしい!といいたいところですが、
なぜかいつ行っても混んでいて、まだ未食。ゲットできたら噛みしめて報告します。
ほかにはスペイン王室御用達のショコラテリア、「カカオサンパカ」とか、
大人気のキャス・キッドソンとか、色々入っています。
ここで注目したいのは、「PASS THE BATON」という雑貨&リサイクルショップ。
ここは普通のリサイクルショップとちょっと違って、
出品物には持ち主の実名と顔写真、出品物にまつわるエピソードが添えられています。
出品者にはスタイリストやファッションディレクター、
カメラマンなど、かなりの有名人も。
つまり、不要品処理施設なのではなく、
大切にしていたモノを大切にしてくれる誰かに繋ぐ、「バトンを渡す」、
モノを通した交流の場のようで、掘り出し物もかなりあります。
丸の内というとエルメスやバカラといった高級ブランドのみのイメージがありますが、
一見地味なこういう店が出ているという所に、新しいい時代を感じます。
中庭では、女性以外にも男性サラリーマンが休んでいたり。
のんびりアイスクリームを食べている人がいたり。
都心のディープな一角に生み出された、人工的なレトロな建物と緑のオアシス。
どこか舞台装置のような空間ですが、それもまた都市の楽しみのひとつといえます。

そんなクラシカルで異国情緒漂う一角と対照的なのが、
もうひとつのランドマーク、国際フォーラムです。
セミナーなどに使われる会議室が詰まったガラス張りのオーバル型の建物と、
演劇やコンサートやイベントが開催される大小4つのホールなどがあります。
通路を兼ねた中庭には樹木が植えられ、
ミュージアムショップやレストラン、カフェもあり、
ここもまた都市の建物空間ならではの雰囲気があります。
けれど、三菱ブリックスクエアがどこかヨーロッパの街や、
仮にもその街に流れる時間を感じさせるとしたら、
国際フォーラムはまごうことなき現代トーキョーの姿!という感じです。
開館はバブルがはじけきった1997年ですが、
多分構想はバブル時代に練られたものであり、
時代の先端を行っちゃうよ!という勢いや気負いがみなぎっていて、
インドなど、今現在勢いのある街には、
きっとこんな建物や施設がいっぱいあるんだろうなと思わせてくれます。
施設は地下で有楽町駅と直結しているのですが、
このところ地下通路は節電で、夜は薄闇の中。
ここでも現代トーキョーがリアルに現れています。
国際フォーラムから日比谷方面に歩き、仲通りに出ると、
煉瓦タイルをモザイクのように敷き詰めた車道と、
同じくらいの幅のある広い舗道、その境に街路樹が並んでいます。
両側にはペニンシュラホテルをはじめ、バカラなどの海外高級ブランドショップが並び、
典型的な丸の内に出会えます。
この仲通りは明治時代から昭和初期にかけて赤煉瓦の建物が建ち並び、
まさに一丁倫敦の最強エリアだったようです。
1930年代の建物を一部復元したDNタワー21はじめ、
こうした方式が多いのもこの街の特徴です。
ある種、丸の内は歴史的な街に仮装した空間でもあり、
ビジネス街であると同時に街造りテーマパークでもあるような気がします。
このあたりはまた、今年100周年を迎えた帝国劇場をはじめ、
日生劇場、宝塚劇場、シアタークリエと名だたる劇場が並んでいます。
その面でもウエストエンドという世界に誇る劇場街のあるロンドンを彷彿させます。
帝劇の正面には皇居、その南側に隣接するのが日本初の西洋式公園として、
100年前に誕生した日比谷公園です。
樹木や花畑に囲まれた散策路や広場だけでなく、音楽堂や図書館もある都市型公園で、
それもやはりロンドンを思わせます。
平日でも、このあたりを歩くと、
舞台やコンサートに行く人達が劇場近辺を行き来しています。
芝居という異空間に触れるあとさきの時間に、
銀座や丸の内はなんてふさわしいんだろうと思うと同時に、
この街を歩いていると、かつて、ロンドンを模倣した街が、
アジアの覇者を経て、今、新しい方向を模索しつつ息を潜めているような気もします。
 
そういえばクールビズは、アフター5の行動を身軽にしてくれそうですね。
以前なら時間がなくてスーツのまま劇場やコンサート会場に突撃という所を、
この夏はカジュアルなシャツにコットンパンツでイケそうですし。
ちょっとおシャレしたい観劇などには、
ウインザーワイドカラーのロンドンストライプ、
ネイビーのクラシックモデルなんかがおすすめです。
麻のパンツを合わせ、麻の薄手ジャケットを手に持って。
夏の夜の丸の内・銀座を楽しんでみては?

*写真は、三菱一号館美術館の外観と、中庭です。
 
 

南国の藻が未来を拓く

先日、東京・大阪間を約1時間で結ぶという、
リニア中央新幹線についてのニュースを見ました。
東京から時速500kmで走るこの超電導リニアモーターカーは、
名古屋開業が2029年、大阪は2045年なのだそうです。
今から34年後では、とんだ近未来な話ですが、
もっと気の長い話題が、先頃発表された超音速ジェット機。
こちらはヨーロッパの航空会社EADSがパリの国際航空ショーで発表したもの。
現在の旅客機と同じようにターボジェットエンジンによって離陸し、
その後はロケットエンジンに切り替えて急上昇。
上空でラムジェットという超音速用エンジンに切り替え、
現在の旅客機より約3倍も高い、上空約3万2千メートルを、
音速の5倍のマッハ5で吹っ飛んで行くのだそうです。
実用化は2050年頃。
かくして人類は東京ーロンドン間を2時間半で移動できる世界に突入するらしい。
ちょうど現在の新幹線による東京・大阪間の所要時間ですね。
しかも、この音速機、悪評だったコンコルドと違い、
遙か上空を飛ぶので騒音とも無縁なのだとか。
もう数十年前にパリでコンコルドが頭上を飛んで行った時の、
この世の終わりかと思えるような轟音がいまだに脳裏にあるので、
音速機と聞いてまずそれを思い浮かべました。
が、そんな私を置き去りにして科学はさっさと進歩していたようです。
さらに、ここがポイントですがこの音速機、
植物から合成したバイオ燃料でターボジェットを動かすとのこと。
ターボ以外のほかのエンジンの燃料は水素と酸素なので、
排出するのは水だけなのだそうです。
つまり、地球温暖化の原因となるCO2(二酸化炭素)を全く排出しない、
早い上にエコなジェット機というわけです。
ひと昔前までは、早さや効率だけが求められたけれど、
昨今は効率と同時に、いかに環境を守れるかも求められます。
そんなことから、原発メインだった日本でも最近、
自然エネルギーが脚光を浴びるようになりました。
太陽光、風力についで注目されているのが、バイオマスエネルギーです。
古代の生物から生成する石油、石炭、天然ガスなどを化石エネルギーと言うのに対して、
バイオマスは現代生活で身近にある動植物から生成される燃料を使うので、
生物エネルギーと言われます。
昔からお馴染みの薪や炭もいわばバイオマスエネルギー。
さらに現代は新技術によって、木材や海草、生ゴミ、紙、
果てはプランクトンなどの生物資源を燃料にして発電できるようになっています。
以前、環境保護大国スゥエーデンの人にインタビューした時、
「コーヒー豆で車だって動かせるよ」と力説していました。
日本でもコーヒーのかすなどを使った代替えエネルギーの開発が進んでいるようですが、
今、最も興味深いのは「オーランチオキトリウム」の存在です。
沖縄のマングローブの根元に棲息している藻で、
光合成を行わず水中の有機物を食べて油を作り、細胞内に溜め込むのだそうです。
油を作る藻はほかにもあるようですが、
「オーランチオキトリウム」の生産量はほかの藻類の10倍以上。
成分は石油とほぼ同じで、代表的なバイオ燃料の原料であるトウモロコシと比較しても、
同じ広さの土地で生産できる油はトウモロコシの5万倍なのだそうです。
例えば琵琶湖の1/3、20万ヘクタールの面積でこの藻を培養すれば、
20億トンの石油が生産でき、世界の石油需要量である50億トンの内、40%を日本で生産できるのだとか。
なんと!日本がブルネイみたいなお金持ち産油国になれると!
OPECなんかも参加しちゃったりするんでしょうか?
しかし何がスゴイって、これを発見した藻類学者の渡邊信・筑波大教授です。
沼や池にいる藻は4万種以上もあって、
教授は効率よく油を作る藻を求めて世界の池や沼や洞窟まで調査し、
やっと沖縄で出会ったのがこの「オーランチオキトリウム」だったのだとか。
教授はこの藻が作った代替えエネルギーでトラクターを動かす実験にも成功しています。
藻類を研究している人が国の命運を決める・かも知れないはめになる。
新時代の到来であることは確かです。

そんなバイオマスエネルギーを使った音速ジェットが2時間半で繋ぐヨーロッパの国々。
1960年代、お金はないけど時間だけはあるという若者達は、
シベリア鉄道で一路ヨーロッパををめざしました。
橫浜から船でソ連(現ロシア)のナホトカまで行き、ナホトカからモスクワ、
さらにモスクワからヨーロッパの国々へと列車で行く旅で、
日本を出てから目的地の欧州の街にたどり着くまで一週間以上かかったといいます。
今なら一週間といえば、日本を発って平均10時間で目的地に到着し、
異国の街を観光して回り、帰路に着くくらいの日程です。
それが50年後には2時間半。早朝に出れば日帰りだってできてしまいます。
「今日はちょっとミラノで買い物してパリで晩ご飯食べて帰って来るわ」みたいな。

先日、高校時代からの親友がオーストラリアのメルボルンから久しぶりに里帰りしました。
彼女はイギリスで知り合ったアーティストのパートナーとオーストラリアに移住。
2年ぶりに会う彼らはデザイン違いの白いリネンのシャツを着て、涼しげで清潔な感じでした。
オーストラリアの彼らの友達は殆どが、なんらかの創造活動をしているアーティストで、
センスのあるなしに関わらず、みんなおしゃれに熱心なのだとか。
そんな友達連中の主なショッピングはネットで、
特に日本のファッションが人気なのだそうです。
「この前も京都にすごくスタイリッシュな靴を作っているメーカーがあって、
サイズが27の女友達が別注したって言ってたわ」とのこと。
京都のメーカーも遠い海の向こうの街から、
オーダーがくることは見越していたのかも知れませんが、
あの古都の街から革靴が海を渡り、南半球の小さな街に届くことを考えると、
とても不思議な気がします。
そう、この土井縫工所のシャツも、時に海を渡り陸を走り、
丘を越え野を越え、未知の街に届けられています。
燃やしてもCO2を排出しない、布製の袋に包まれて。

世界の距離はリニアモーターカーより音速ジェットより、
急速に縮まっているんですね。

写真は、メルボルンからの親友カップル。